コケムシです。
皆さん袴って着た事ありますか?
BLEACHで死神がはいてるヤツですね
イメージとしてもスカート状のズボンって感じでしょう
時代劇でもこんなのはいた侍よく見ます
けど実際に穿いたら裾は踏むし、片方の筒に足引っ掛けるしでハッキリ言って使いにくいんですね
儀式の際に穿くんですが、めっっちゃ過ごし辛い
んでやっぱ思うのが
「昔の人ってこんな動き難いモノを普段着にしてる辺りアタマわりぃなぁ・・・」
って事
子供の頃からしょっちゅうおかしいと思ってました
だけど調べて解った
「これ普段着でもなけりゃ、殆ど使われてた物じゃないじゃん」
周囲の学のない大人達からそう聞かされて育った訳ですが、子供の感覚こそ正しかった訳ですよ
んじゃどんなのが普段着とかだったかって
山袴
ってワードが出てきた
名前からして田舎くせぇけど実物はもっと田舎臭いです
一応言っときますと、普段着と言うより労働着だったみたいです
普段着には穿き物を着る習慣があまり見受けられず、労働が終わったら脱いで着流しだった様子
しかも丈の短い半着みたいな着物を着流しにするのも普通の事だったのが、農民の常識でした
ただ、普段着としていた例もありまして、文字通りおはようからおやすみまで着る習慣も見られました
寝間着でもあったんですね
んじゃ今日はそんな田舎臭い袴を紹介していきますね
- 抑々山袴とは?
- 3類8種について語る前に
- 第一類 二布型(前布独存=無後布型)
- 第二類 四布型(前後布併存=有後布型)
- 第三類 六布型(前後布・奥布=有奥布型)
- 山袴の分布
- 襠について
- 袴の起源としての山袴について
- 最期に
抑々山袴とは?
ウン、普通知らないよね
山袴って名称はそもそも地方で使われていた言葉だったそうです
と言うのも、大正2年に民俗学者であり服学者・宮本勢助は「カルサンの今昔」という論文を出しているんですが、山袴という言葉はまだ出てきてないんですね
そして大正4年に、柳田國男と宮本勢助含む民俗学者が集って書いた「ヤマバカマの話」で漸く「山袴」という言葉が出てきます
「高等服飾とも言うべき種類に属する袴に対して存在する、民間服飾に属するこれらの袴の一群を総括して我々は仮にこれを「ヤマバカマ」と呼ぶ事にしている」
という一節から
「ヤマバカマの語は、現在地方では方言として狭義に使用せられているから、此広義なヤマバカマの語と混同してはならない。」
ともあり、元々は様々な土地で言い伝えられていた言葉が語源としてあるようです
もしかしたら忍者がはく事から「夜魔袴」という漢字だったり・・・・・しません
何にしても、山袴と言う言葉が学術的な意味合いから使用されたのは、この「山袴の話」が初めての御様子
因みに
大正2年 郷土研究の一環 9号 537ページ 誌上問答
において
問49 関東奥羽に見るヤマバカマ
という質問があり、質問者の正体は誰か解っておりません
因みに服飾の研究は民俗学以外ではされていなかった様で、宮本勢助によって「服学」と言う学問として派生してます
「服学の 種子こそ植ゆれ 今日の暮れ」
宮本勢助の辞世の句だそうです
そして山袴がどんなモノかというと
と言う具合に「腰板が無いもの」と書かれていますが、宮本勢助は
「あったとしたら近世に改良されたもので、本来の山袴は室町時代初期の「広腰」に端を発する腰板が発生する前の特徴を伝存するものであるといえる」
と書いています
腰板がある場合を「改造」ではなく「改良」と言ってるのはなんなんでしょうね?
3類8種について語る前に
この3類8種の区別に関しては生前、宮本勢助が暫定的に決めた区別でして、研究が完全に終わった訳でもないので完全な区別ではありません
現代ファッション同様に、完全な区別はほぼ不可能と言えるでしょう
「服飾民俗圖説」で本山桂川はこう書いています
モンペの氾濫とその將來
故宮本勢助氏は、曾て「山袴」なる況稱のもとに、今日、防空服の下穿きとして都會地においても重寶がられてゐるところの廣い意味でのモンペなるものを、その形態から分類して、
1 タチツケ系統のもの
2 モンペ系統のもの
3 カルサン系統のもの
といふ三つの系統に大別した。こうして、 タチツケ系統のものは、膝から下が全く一幅で作られてゐるのと特徴とする。
從つて筒が極めて細く、ケマハシが一幅になつて、膝以下 即ちハギが細い。
これには(ィ)膝以 下の背面の縫外づれたものと、 (口)膝以下の筒となったものとがある。
モンペ系統のものは、アトマチが發達して三角型の底邊の左右端が裾に達してゐるのがその特徴である。
カルサン系統のものは、裾口 の大きさが筒よりは細く括り寄せて作りつけてある。
從つて蹴廻しにヒダがある。
又裾に裾繼ざがあつて、 これには著しく發達したものがあり、地方によってその裾継ぎをハバキと呼んでゐる。
――といふ風に區別を立ててゐる。
しかしながら、その「山袴」なるもの、分類は、まだそれだけでは十分でないのみならず、 服飾習俗語彙』のャマバカマの項にも記されてある通 り、元來 山袴といふ名はどこにでも適用される代りに、これを土地土地の袴の名としてゐる例は少ないのである。
從つてむしろ總稱として用ひるのが適當であらう。
實際山袴の制式は土地によって異るといふ以上に、時代の変化が甚だしく、少 しでも便利のが見つかると、すぐに他所のものを探用した。
それほどにこの袴は常民の生活に必要でもあり又痛切な要求のものでもあった。
そこでその制式や着用の方法もさまざまである。
と、記している通りです
タッツケバカマ・カルサンバカマ・モンペバカマ
と言う名前の袴を調べてここに来た人が居るなら、あえて言いますが
もう適当に名付けられてゴッチャ混ぜになってるから名前による区別とかされてないし、出来ないから、俗称程度に考えて下さい
第一類 二布型(前布独存=無後布型)
前布だけが独存し、後布が存在しないのが特徴です
丁型式=無縫口型
これは「タチアゲ」と呼ばれる遺物しか残ってないとされています
コレです
ええ意味解らんですね
儀等が昔書いたノートにも「正直理解できない」と大きく書いてあります
脚絆の腰まであるVerですかね?
材料は主体、乳(輪っかの事です)ともに鹿革で作られているとか
なんでも使用していたのは猟師
この種類の袴はコレ以外見つかってないそうですが、鹿児島では「タッチャゲ」という語が使われていたりするそうです
まぁタッツケの訛りの可能性はありますが
宮本勢助の第一類 二布型 丁型式山袴に該当するか解りませんが、京都近郊の山村から西は中国地方一体、九州は南部に於いて
「タチカケ」
と言う呼称の袴が散見されます
注 181参照
タチアゲ同様の膝下と足首を紐で結ぶ型式、縫合無しの鹿革製です
もうほぼ確定で該当物でしょうな
そして「タッツケ」の語源である事も大きく考えられます
「タチアゲ」は袴としてはかなり古い形式を遺した資料で、「行縢」や台湾の高山族の「ポヨヨ・カチン」という物とも似てるとか
・・・ポヨヨ・カチンってどんなんですかね?
って訳で「高山族」で検索
え、コレ?
いやまぁ似てるかな?
ヒザ下で紐を結ぶ辺り確かにそれっぽい
これがポヨヨ・カチン?
これなんか見た事あるな・・・・・
・・・あっ
行縢との関連性は解りませんが、形式は似てますね
同じく鹿革ですし
因みに「ムカバキ」と言う名前ですが、これは「ムカハギ」が語源です
字は「向脛」でして字の通り、脚絆や脛巾のような形状をしている物だったんですが、次第に膝まで覆う形状へと発展して、狩装束としての行縢のみが「正式」と決められ、語源・起源の「向脛」は消えました
このタチアゲも同様に行縢へと変換を辿ったのか、袴へと派生したのか、わかっている事はとても少ないです
ただ日本の下衣として使用されていたなら袴の起源だったりするかもしれません
そもそも行縢が袴の起源かもしれませんしね
・・・ないか?
戌型式=有縫口型
なんでも岩手県と愛知県で作られていた袴だとかで、他地方では見られないとの事
でも別の所で使われている話も散見されるんですよねぇ
「カタグシ」と言われる袴があったそうです
このグシというのは「腰」の訛りで文字通り「片腰」を意味します
その意の通り片方だけなんですが、現代人には誤解しやすい言葉なモノで、昔の人は袴の布を「前か後ろどちらか」を片方と呼んでいたんです
コレは前腰のみで後腰はない形式の袴です
前布だけなんですよ
つまりお尻は縫われてすらいません
しかしタチアゲと違うのは、下部が筒状に縫い合わされてる事です
材料は麻布で、紺色の無地
もっぱら大工などが使っていたそうですが、女性は使わなかったとか
名前は解ってませんが、これと同様の雛形が同じ岩手県 和賀郡 沢内村 川舟で見つかってます
青森県でも使われていたと言う話もあり、カタグシモンペと言われていた様です
例に漏れず、後ろの方に布地が無いです
前部分の布地を後ろに回して、膝下の部分が筒状になっていたそうです
コレを前と後がある場合は「両グシモンペ」と呼んでいたとの事
愛知県では同様の袴が使われていたらしく、名前は「フンドシナシ」と呼ばれていたと伝わっています
股引みたいに股間が露出するタイプの袴だとか
儀等が思うには、この「カタグシ」を前と後ろに着た「リョウグシ」が、袴の元祖なのではないか
そんな気がします
カタグシの形式はとても原始的ですし、尻丸出しを嫌がって後ろにもう一枚カタグシを着て袴の原型が成り立ったりしたんじゃないか?と考察したり・・・
第二類 四布型(前後布併存=有後布型)
前と後に布があてがわれている形式です
第一類に対しては後布がある事
第三類に対しては奥布がない事
が相違点です
しかし後布は未発達・短小・中長・長大といった具合にバラツキがあります
甲型式=タチツケ型は特に後布が短小です
乙型式=モンペ型は中長
丙型式=カルサン型と庚型式=秋田子供フゴミに至っては長大という発達過程が見受けられます
つまり第二類 四布型とは後布の発達過程の軌跡みたいな所があるんですね
では解説します
甲型式=後布短小型
第二類 四布型の初期に属します
後布がまだ未発達なんですね
膝から下の部分は前布だけで筒状に縫われてます
襠に関しては殆どが「ハコマチ」と言われる方形襠です
そして殆どが丁型式や戌型式の面影が遺っています
実はこの膝下なんですが、縫い合わされたモノと縫われていないモノとあります
縫われていないのは紐で結ぶか、小鉤やボタンを使って留めるタイプです
要は袴の下に脚絆が付いてるタイプと考えれば解りやすいです
基本的に名称は「タチツケ」で呼ばれています
乙型式=中長型
後布発達においては中期にあたるモノです
甲型式では後布が膝下まで行きませんでしたが、これは裾まで伸びるんですな
この型式は「モンペ」と呼ばれていますが、昔あった「フンゴミ」もこの型式だった可能性が高いそうです
モンペについては此方の記事で詳しく書きましたが、股引が訛ってモンペです
日本の山袴ではかなり広範囲に分布する袴です
山袴って言ったらコレ!!
乙なものってゆーか乙型式です
丙型式=後布長大型
発達過程において後期の袴です
ですが同時に裾口に横布の裾継があります
これは「ワ」「シャク」「ヒキマワシ」と言われているそうです
「袴の起源としての山袴について」で後述してますが、この裾継は古い型式 の袴に採用されていた構造です
この袴の呼称は大概が「カルサン」
カルサンと言えば本来ポルトガルの物なんですが、名称だけは好き勝手に使われてた様です
庚型式=無襠型
丙型式と同じで後布が長いです
しかし読んで字の如く、襠が無いのが特徴
秋田県 南秋田郡 脇本村の女児用の「フンゴミ」がこれに属します
第三類 六布型(前後布・奥布=有奥布型)
第二類と同じく前後の布がありますが、第二類にはない奥布があります
前時代的なハコマチではなく、特殊な形の襠が使われる様に進化しました
これは朝鮮の袴・中国の褲子の先行型式をなすものと考えられます
己型式=襠式奥布型
奥布の縫い合わせが特殊なタイプで
前布が現代袴の脇布へ発展して、奥布は現代袴の前布へと発展してきてます
(ココで言う現代袴がどの時代のモノかはよく解りません 多分、座敷袴(馬乗袴)の事じゃないかな・・・)
素材は麻で、腰紐や裾括も麻紐である事が古風なんだとか
辛型式=完全奥布型
愛知県北 設楽群 振草村の「花祭四ッ舞の袴」に見られる、完全な奥布があるのが特徴です
この奥布は前布として存在しており、脇布・前布が併存する現在の袴と全く変わりません
山袴の分布
これら山袴の分布なんですが、東北地方に密集した感があり、沖縄では「ハカマ」という言葉があるのに対して山袴の類の存在は確認できてないとの事
暑いからかな?
襠について
山袴の襠は大体、正方形で「ハコマチ」「カクマチ」と呼ばれるモノです
しかし三角形の襠もあり「ヒウチマチ」
仙台では「ササ」と呼ぶとか
正方形=◇だったのが二つに切られて
△
▽
に分けられたものです
んでこの三角型は、後襠に該当する部分がどんどん大きな布が使われる様になり、角のすみっこは袴の両裾まで伸びたりする様になっていきました
袴の起源としての山袴について
山袴の伝統に関しては、「タチアゲ」「タチカケ」が特に古く
袴に関しては最も古い形を残した山袴と推測されており、アジア諸国で古い服装でもあります
前述した台湾の高山族のポヨヨ・カチンやインドネシア諸族の袴と密接な関係があると考えられます
海の向こうから渡ってきたのか、むしろ渡ったのか・・・
おそらく前者でしょう
また素材が
●鹿革
●藤布
●麻布
が使われたり、白無地がワザワザ選ばれるのは「衣服令」の影響ではないかと言われています
また着法も「後腰をズラして穿く」という事があります
コレ実は中世の絵巻物にも見られるとかで、極めて古風な着法だとか
他にも山袴と装束の袴類は同様に「腰板」が無い事がマジョリティです
というのも前述した通り、室町時代に作られた「広腰」という物が腰板の起源だからです
平安→鎌倉→室町→戦国
ざっくり書くとこんな感じで、平安時代や鎌倉時代の袴の特徴が伝統されているんですな
また「表袴の裾継」「野袴の芝引」 の原始形態とも考えられる「イシズキ」と呼ばれる裾口の縁取がある事も指摘されています
そして長野県木曽地方で確認された「カルサン」の襠は、正倉院に伝存される奈良時代の袴の襠と全く同様の「一尺四方の角襠」と言う凄く古い型式が伝統されてるんです
また「一尺四方の角襠」は朝鮮婦人の裡々衣(ソクソコツ)の原型長方形、縫い上がり菱形の襠と相通ずる物があります
まとめて行くと
①
アジア諸国に於いて古い形式として見られる袴と非常に似ている事から、丁型式山袴は極めて原初的形態を残す袴と考えられる事
②
使われる素材・色が「衣服令」の影響であると考えられる事
③
着法に於いて「後腰をズラす」等、古い絵巻物に見られる着法が残っている事
④
室町期に起源を遡る「腰板」が無い事
⑤
「表袴の裾継」「野袴の芝引」と言った裾の処理と同系統と見られる「イシズキ」と言われる処理が見られる事
⑥
奈良時代の袴の襠と全く同じものが使われている事
⑦
朝鮮の「裡々衣」の襠と類似している事
等が挙げられています
個人的には「裡々衣の襠」の起源や歴史が気になりますね
一応出土した埴輪の褌なんかも起源説が語られますが、如何せん土器の人形であって実物ではない為に
形状・着法
が全く判らないんですね
「日本の袴の起源」として証拠になる物が見つかってないんです
謂わば「ミッシング・リンク」とでも言いましょうか
ただでさえ大陸文化・文明に影響を受けた日本ですから、断絶した可能性もゼロではないんです
現に右前・左前と言うとりますが、埴輪では左前の作法なんです
これも大陸文化の影響と考えられます
埴輪の袴は、衣褌(きぬはかま)と言う物なんですが、二部式・ツーピースと言われる型式の服装の下衣です
胡服と同じ型式で
胡服は広くユーラシア大陸の内陸部から北方全域に広がり,今日の西洋式服装も源流は胡服に発している
と言われる服です
つまりズボンやスラックスの起源と言ったトコロ
日本の衣褌が胡服の影響を受けたかは判りません
衣褌については
古事記(712)中「王子は、布の衣褌(きぬはかま)を服して、既に賤しき人の形に為りて」
とあり、7世紀頃の日本では卑しい物とされています
7世紀頃には大陸の服飾文化が伝来して、今日所謂「平安装束」とか言われる物が正装の立ち位置だったんです
これは「袍(ほう)」と言われる中国文化でして、その影響で7世紀以前の日本の服飾文化が時代遅れと馬鹿にされるようになったと考えられます
その時代遅れの日本の服飾文化こそが「衣褌」です
しかし上流階級の天皇・貴族と言った人々は袍を着ても、武士や武官達は中流階級に属する為に袍を着なかったんですね
袴に関しては、褌と区別されていたのか判りません
ただ装束の袴には興味深い話がありまして
こちら
によると
「足首辺りで裾の紐を巻くのが上流階級」
「膝下辺りで裾の紐を巻くのが下流階級」
と言う話があります
この膝下と足首の差は、当時貴重な布地をどれだけ多く使えるかと言う事による差別意識でしょうが、埴輪の衣褌も膝下で結ぶ事が影響していたのかもしれません
時代遅れのハカマの作法でもありますからな
そして下剋上を起こした武士が日本の支配階級として君臨し、鎌倉幕府が発足
「貴族なんかが着てた袍じゃなく、俺達武士の服装を正装にする!」
と言う事でそれ以前には庶民の服装であった「直垂」が正装となり、庶民は着る事を禁じられたと言われています
と、同時に衣褌も袴として発展していき、今日の袴になったのでは無いか、と考えられている説です
7世紀以前の日本服飾と以降の大陸服飾の間のミッシング・リンクが「山袴」の中にあるのかもしれない
方言などでも見られる様に、都市部との関わりが殆どない地方では古語が普通に使われる等、古い形式を残します
であれば地方で普通に使われる服「山袴」は古い型式を伝統してもおかしくないでしょう
埴輪の衣褌はタチアゲ・タチカケの様な形状と似てもいます
要は山袴の研究は「日本の袴」という文化の起源や由来を知る為に重要なファクターなのです
山袴の研究は「日本の袴」という文化の起源や由来を知る為に重要なファクターなのです
山袴の研究は「日本の袴」という文化の起源や由来を知る為に重要なファクターなのです
重要な事なので三回書きました
最期に
山袴の研究は「日本の袴」という文化の起源や由来を知る為に重要なファクターなのです
参考文献
宮本勢助の息子、宮本 馨太郎著「かぶりもの・きもの・はきもの」
本山桂川著「服飾民俗圖説」